六月二十五日 おまけ〜京都幻想滞在記〜 その3

下鴨神社に着くころには正午を回っていたと思う。

神社の境内は予想していたよりも遥かに巨大で、

さらに一本道を外れると入り組んだ獣道に放り出され方向音痴の私はうっかりしていると 二度と下界には戻れないかとさえ想像してしまった。 アルデンヌの森を行軍するドイツ兵のように周囲を警戒しながらさ迷っていると老画家に出会した。

ちらりと絵を覗くと夏だと言うのに何故か桜の如く色鮮やかな桃色がキャンバス一面に描かれていた。 老人はこちらに気付き、ニッコリと微笑みかけた。それはあまりに淀みのない綺麗な笑顔であった為、 かえって私を不安にさせた。

その為、その老人が実は下鴨神社の境内に迷い込んだ者に幻を見せて地獄の底まで引きずり下ろしてしまう げに恐ろしき妖怪なのではないかという想像が一瞬脳裏を過った。

「なぜ桜を描いているのですか」

当たり障りのないことを聞いて老人の出方を伺った私。 非常に賢明で教養のある人間であることがすぐに分かるだろう。

「いえ、違います。これは下地です。これから葉の色を塗るんですよ」

「……」

知っていた。知っていたとも。そのくらい教養のある私なら知っていたに違いない。

何だか無性に腹立たしくなり私は早々に老人と別れを告げると下鴨神社の本堂の方に向おうとした、 が一応最後に老人に労いの言葉でもかけてやるのも悪くないと思った。



「……あの、本堂はどちらですか?」




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