その盃を手に入れろ

2012年、夏

常磐壮太はまじめで学業も優秀、外見も悪くはなく、性格もおっとりしており、傍目から見れば、 昨今流行りの『草食系男子』の風情であった。そんな壮太の欠点と言えるものは、まじめすぎることと、 おかしな男の下宿に足しげく通うという奇行であった。壮太は男を『先生』と呼び慕っており、 八月初めの貴重な夏休みを溝に捨ててまで、先生の下宿のある五橋界隈の酒屋を訪れた。

先生とは言っても壮太の通っている大学の教授でもなければ学部の先輩でもない。 辛うじて年上ではあるものの、先生は悪く言ってしまえばただの胡散臭さを余すことなく周囲に振りまく昼行燈であった。 何故壮太が彼のような男を尊敬するようになったか、というのには相応の事情というものがあるわけだが、 この物語からは主旨が反れてしまうので、割愛する。


先生の下宿は、『汚い』という表現だけでは最早その様相を形容することは出来ないほど荒れていた。 荒れ狂っていた。まずは本、そして本、さらに本、床の大半を散らばった蔵書が埋め尽くしており、 およそ足の踏み場は皆無であった。その為壮太は幾度か、床が抜けてしまわないか心配したが、 そんな心配は露知らず、先生は積み上げられた本たちの上に座して、煙管を吸いやった。

「―――酒、まぁこの場合ウイスキーに限定されるかもしれんがね、荘太君、 ウイスキーが好きな知り合いがいたとして彼の誕生日に君は何を贈るだろうか?」

先生の歪曲した口元から吐き出される紫煙は、甘く、熟れた果実のような薫りがした。 加えてフォークソングのレコードが何処からともなくまったりと流れてくる為、 壮太は時間までもがゆっくり流れているのではないかとさえ錯覚した。

「う〜ん……高いウイスキーでしょうか?」

常盤荘太という少年は非常に、また愚直なまでにまじめであった。無論それが彼の取り柄でもあった。 ちなみに野球で知っている球種はストレートだけである。先生は「捻りが足りんなぁ」、と口元を歪めて笑う。

「ウイスキーと言っても色々種類があるだろう。スコッチだとかバーボンだとか……バーボンだとか、バーボンとか……」

コホン、と咳払いをして先生は続ける。ついでにバレないよう冷や汗を拭う。

「……つ、つまりだね、高い酒を買ったは良いがその人の嫌いな物ではいけない訳だ。 かくいう私は友人であるサカイ氏という男の誕生日にスコッチを贈ったのだが、 彼はアレ特有の煙臭さ嫌いらしくてねぇ……」

「な、成程!」

荘太の素直さはどちらかと言えば天然だった。それでも髪の毛はストレートパーマだったが今の話に全く関係ない。 これだけ見送られては変化球を頑張って放る先生も疲れる。

「……そこでだ、どうせプレゼントするならグラスをあげるというのはどうだろうか? 良い酒を、良いグラスで飲む、これぞ物好きの極みだと思うのだよ、私は」

「……先生、グラスが欲しいんですか?」

先生の変化球は呆気なく打たれてしまった。 ストレートしか放れないのと変化球が打てるかどうかとは無論別問題である。 拍子に本が崩れ、先生は畳に尻もちをついた。

「……じ、実はだな、巷では若干有名な話なのだが…… 数々の名言で有名な、あのウィンストン・チャーチルがウイスキーを飲むときはこれと決めていた ショットグラスと同じ物がこの仙台にも一つあるみたいなんだ……」

尻をさすりながら先生は情けなく述べる。

「……先生はそれが欲しいんですね!」

またも打たれた。打球は先生の下宿のある五橋界隈から遠く離れた楽天イーグルスの本拠地 『クリネックススタジアム宮城』の方まで飛んで行ったかに思われた。 先生は案外打たれ弱く、打たれる度に変化球のキレは悪くなっていった。

「え〜、あ〜……うん……まぁ、欲しいね……」

キレが悪くなったところで荘太は決定打を放つ。

「分かりました!先生の為、その幻のショットグラス、この常磐荘太が手に入れて参ります!」

「あ……え……っ!?あ、こら、待ちなさい……っ!」

言うなり荘太は先生の静止の声にも耳を貸さず、勢い良く下宿を飛び出していった。 バタン、と勢い良く扉を閉めたので、はずみでさらに積み上げられた本のいくつかが崩れ落ちた。


「行ってしまったか……気の早い子だ……」

先生は敢えて外へ出て追おうとはせず、おもむろに携帯を取り出し、ある人物へ連絡をかけた。



「…………あ〜、もしもし私だが」




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